君はPALを知っているか?(2)
掲載日: 2026/01/15 更新日: 2026/01/13
ゲーム開発昔話02_PALってなんだ?
[テレビジョン開発史]
目次
初めに
前回からの続きでテレビ放送規格の成立を調べていたところ、テレビの開発史が思いのほか
ドラマチックな展開であったので、今回はテレビ開発の黎明期からNTSCやPALなどの規格
が現れるまでの歴史を年表形式でそれらに関わる人物に焦点を当てて紹介しようと思う。
取り留めない内容となるかもしれないがお付き合いしていただきたい。
黎明期
電気技術の発展に伴い、通信に関する研究も進展した。
それは電信から通話、ラジオ放送へと広がり、次は映像を記録・遠隔地へ送信したいと言う流れになるのは
当然であり、テレビシステムの成立までには色々な物語が存在していたのである。
1907年_11/26:ロシアのボリス・ロージング、ブラウン管によるテレビ受像機を考案し特許出願
ボリス・ロージング [Boris Lvovich Rosing]
1869/5/5 ~ 1933/4/20

オランダ系ロシア人、サンクトペテルブルク国立工業大学に所属し研究を行っていた
ブラウン管を使ったテレビシステムを着想、1907年11月26日にドイツで特許を申請する
ニプコー円盤と類似する機能を持つ回転する鏡による走査を行い、ブラウン管による
表示を行うデモンストレーションを行った。
ニプコー円板とは、機械式テレビで走査によく使われていた仕組み
映像を電波などで遠隔地に送る為には2次元である映像を1次元である電気信号に置き換える
必要があるこれを走査と言い、映像を有限の個数に分割しそれを一つずつ電気信号に置き換える
映像走査の例)
縦要素(走査線)は5本、横要素(走査線上の画素)は6個
左上から順に信号に置き換えて送信し、受信側で受け取った順に表示すると映像が再現される

ニプコー円板(国立科学博物館所蔵)
これがニプコー円板の現物、円の周囲にあるレンズ穴が始まりと終わりでおよそ1個分
ずれているのが分かるだろうか。
レンズ穴の位置が徐々に中心に向けずれて螺旋状になっている、固定された検知器の前でこの
円板を高速で回転させれば上記の走査の例の様に上部から順番に映像を連続した電気信号に
変換可能だ。

つまり、この円板を1回転させれば1フレーム分の信号を取り出せるという理屈
(穴の個数が走査線数になる)
まぁ今から考えればこのバカでかい円盤をブンブン回していた機械式テレビというのは割と
正気の沙汰ではない。
1908年:イギリスのキャンベル・スウィントン、撮像側にも陰極線管を使った電子式走査法の
概念を科学雑誌『ネイチャー』に発表。全電子式テレビジョンの可能性を示唆
キャンベル・スウィントン [Alan Archibald Campbell-Swinton]
1863/10/18 ~ 1930/2/19

スコットランドの電気技師、放射線写真研究所を開設
ニプコー円盤による機械的なスキャン方法が将来、技術的な行き詰まりになると
看破し可動部が無い電子的なスキャンの必要性を指摘する論文を発表した。
当時の技術での実現は難しかったが、彼は全電子式テレビシステムと言う
ゴールを設定しテレビ開発を行う研究に大きな影響を与えた。
1911 _:ロシアのボリス・ロージング、世界で初めてブラウン管を用いたテレビの送受信実験を行う
受像にはブラウン管を用いた電子式だが、撮影(走査)には機械式スキャンを用いた
しかし実用レベルの精度には不十分であり、特に撮像側の電子化が待たれていた。
1914 _ 7/28:第一次大戦勃発
1917 _ 3 ~ 11:ロシア革命によるロシア帝国の崩壊
◆ ボリス・ロージングを襲った不運
1914年のサラエボ事件が切っ掛けとなり、ボリス・ロージングが属するロシア帝国は三国協商を結んだ
イギリス、フランスと共に ドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟との戦争に突入、
周辺国も巻き込み第一次大戦が勃発。
大戦の後半、ロシア帝国は二月革命・十月革命を経て崩壊しロシアは混乱状態となった。
ロージングはその後もテレビの研究を続けていたみたいだが、ヨシフ・スターリンによって反革命の
容疑でアルハンゲリスク(収容所送りだ)に追放されてしまう。
その後、支援者の擁護によってアルハンゲリスク州立工科大学に復帰し物理学を教えたが1933年に
脳出血により他界した。(スターリンの死後の1957年に容疑が取り消され、名誉回復)
戦後の彼の研究に関する情報は少なく、実際スターリンから地方に追放された事を考慮すると体制側から
冷遇されていたのではないかとの想像に難く無い。
世界大戦とロシア革命が無ければテレビの歴史も違った物になったかもしれない。
第一次大戦によりテレビの開発は足止めを食う形になったが
無線通信技術による電波利用については飛躍的進展を遂げる事になる。
発展期
第一次大戦による混乱により一時停滞したテレビ開発だが
戦後からはいよいよ機械式テレビから電子式テレビへの転換が行われる。
電子式テレビシステムの登場によりテレビはより実用に近づくが
市井の技術者が偉大な発明をするというようなおとぎ話的な時代は終わり
テレビは政治とビジネスの世界に取り込まれ、権力が趨勢を左右する時代になってゆくことになる。
1925年 _ 3/25:スコットランドのジョン・ロジー・ベアード、撮像と受像に機械式の
ニプコー円板を用いたテレビを開発、見分けられる程度の人間の顔を
送受信することに成功。
ジョン・ロジー・ベアード [John Logie Baird]
1888/8/13 ~ 1946/6/14

スコットランドの電気技術者
ニプコー円盤を用いた走査線30本のテレビジョン装置を作成し1926年1月26日、
ロンドンの王立研究所で動く物体の映像の送受信を公開実験で成功させた。
1928年7月3日にはニプコー円盤の開口部を3個とし、それぞれに三原色の
フィルターを付け世界初のカラーテレビを制作した。
英国の英国放送協会 (BBC) のテレビ放送に貢献をし、1929年から1932年までに行われたテレビ
試験放送にベアードのシステムも試験的に採用された。
彼はテレビ放送以外にも様々な発明を行っていたが、なかなかユニークな人物だったらしくグラファイトを
熱してダイヤモンドを作る実験を行い地域の電力網に問題を起こしたり、錆びないガラス製剃刀を作ったり
(割れてしまい使い物にならなかった)などの逸話を残している
1927 :アメリカ合衆国のフィロ・ファーンズワース、世界初の撮像管「イメージディセクタ」
による映像撮影に成功、ブラウン管に「$ $」を表示。
これにより同年、撮像・受像の全電子化がついに 達成される。
フィロ・テイラー・ファーンズワース [Philo Taylor Farnsworth]
1906/8/19 ~ 1971/3/11

アメリカ合衆国の発明家
機械式ではなく電気的に動作する電子式撮像管(イメージディセクタ撮像管)を完
成させた、これによりキャンベル・スウィントンが示唆した全電子式テレビシステムが実現したのである。
彼はテレビ以外にも多様な研究を行い、電子顕微鏡や新生児特定集中治療室、
牛乳の殺菌装置なども開発した。
海軍とのコネクションもあり潜水艦検知装置や赤外線望遠鏡、航空交通管制の
表示スクリーンなども開発していたらしい
彼はイメージディセクタ撮像管などのテレビ関連技術の特許を取得したのだが
後に厄介なトラブルがやってくることに…
1928 :アメリカ合衆国のWGY(現在のWRGB)がテレビ実験放送開始。
1929 :イギリスの英国放送協会(BBC)、ドイツの国家放送協会がテレビ実験放送開始
1931 :アメリカへ亡命したロシアのウラジミール・ツヴォルキン、電子走査式撮像管
「アイコノスコープ」を考案し特許出願。
ウラジミール・ツヴォルキン [Vladimir K. Zworykin]
1888/7/17 ~ 1982/7/29

ロシア系アメリカ人、サンクトペテルブルク国立工業大学に在学し
ボリス・ロージングの助手を勤めていた。
1918年頃にアメリカに移住、ウェスティングハウスに就職し
テレビの研究を行っていたが実用的な成果を得ることは出来なかった。
その後RCA社に移籍しテレビシステムの開発を続け、ハンガリーの技術者
カルマン・ティハニの電荷蓄積技術を利用した電子走査式撮像管
「アイコノスコープ」を完成させた。
アイコノスコープはファーンズワースのイメージディセクタ撮像管より高感度であり
テレビ放送の実用化を大きく進める事になる。
一説によると、ツヴォルキンはファーンズワースの研究室にてイメージディセクタを視察し
撮像管の開発に影響を受けたと言う話もあるが、どうだろうか?
1931 :RCA社がファーンズワースの特許を10万ドルで買い取りを提案、ファンズワーズが
これを拒否すると自社の特許が優先であるとファーンズワースに特許使用料を請求する
RCA [Radio Corporation of America]
1919/11/20~1986/12
当時、無線通信はイタリアのマルコーニ社とが牛耳っていた、しかし各国の政府・軍部(特に海軍)は
長距離通信のインフラを他国の企業に依存することへの危惧を感じ、多国籍企業となっていたマルコーニ社を
いわば分割し自国企業に組み込むような動きを取ることになる。
アメリカ海軍はアメリカ・マルコーニ社に強烈な圧力をかけ
ゼネラルエレクトリック所属のオーウェン・D・ヤングが設立したRCAに事業を引き継がせたのだ。
RCAはその後、GEおよびマルコーニ社から引き継いだ広範囲な技術特許をベースに
無線通信・放送において支配的な影響を行使していた。
ファーンズワースの特許への攻撃は、これをテレビ放送においても行おうとしたので
あろう事は想像に難くない。
1932:8月、イギリスBBCで世界初の定期試験放送(機械式、週4日)開始。正式開局は1936年。
1934:11月、ソビエト連邦がテレビ試験放送を開始。(撮像・受像どちらもニプコー円盤を使用した機械式)ドイツ・フランスでも機械式テレビを使った試験放送が開始される
1934 _ 5/14:英国政府 郵政省 が英国テレビジョン委員会を設置、国内での放送規格の標準化に着手
1935:ファーンズワースがRCAとの特許裁判で勝利、ファーンズワースの特許が
RCAの主張する特許と無関係と認める
数年に渡るファーンズワースとRCAの特許裁判はファーンズワースの勝利で終わり
RCAは結局100万ドルでファーンズワースの特許を取得する事になる。
なお、この裁判にはファーンズワースの高校時代の教師が彼の提出したレポートを
裁判資料として提出し、彼のアイデアがRAC特許の模倣ではないと証言したという
興味深いエピソードがある。
なんにしろ、当時のRCAの傍若無人振りが周囲の関係者に悪印象を持たせていたのかもしれない。
(ちなみ、RCAは80年代に経営が悪化、ゼネラルエレクトリックに吸収された)
1936:ドイツでベルリンオリンピックのテレビ中継が行われる。(中継ではアイコノスコープを使用)
1937:イギリスBBCが世界初の定期放送を開始
(アイザック・ショーンバーグの405ラインシステム )
アイザック・ショーンバーグ [Isaac Shoenberg]
1880/3/1 ~ 1963/1/25

ロシア出身のイギリス人、インペリアルカレッジで博士号を取るために
留学していたが第一次大戦の影響で断念、マルコーニ社に入社
その後コロンビア・グラモフォン社に移籍、研究部門をリードした。
コロンビア・グラモフォン社はコロンビア・フォノグラフ社を買収(ややこしい)
マルコーニEMI社となる。
1934年、彼が率いる EMI研究グループは RCA社のツヴォルキンが開発した
技術をベースに撮像管の感度を向上させた高性能のマルコーニEMIシステムを
完成させた。
マルコーニEMIシステムは1936年からのBBC定期放送にベアードのシステムと共に採用され
3ヶ月の試験の後、マルコーニEMIシステムが採用される事になる。
このシステムは 405ラインシステムと呼ばれ、国際規格であるITU規格のAシステムとして
1936年に承認された。
なお、405ラインシステムは英国で 625ラインシステムが登場する 1960年代まで現役として
使用される事になる(サービス停止は 1985年)
1939 _ 9/1:第二次世界大戦勃発
全電子式テレビシステムが実現しいよいよ本格的なテレビ放送が始まろうとしていた所だったが
第二次大戦の開始とともに電波は国家の統制の対象となりテレビ放送の実現は後退・停滞する事になる。
1940 _ 07/31:第一次NTSC初会合
1941 _ 03/20:モノクロテレビ放送規格承認、合衆国連邦通信委員会(FCC)に勧告
1941 _ 05/03:FCC(Federal Communications Commission:米国連邦通信委員会)
NTSCモノクロ放送規格を採用
NTSC [National Television System Committee]
ここに来ていよいよテレビ規格NTSCが登場
今まで企業主導で開発されていたテレビだが、本格的な商業放送を視野に入れる場合
放送規格の乱立は避けなければならない。
そのためアメリカ政府は関連企業の調停、技術の標準化を行う
全米テレビジョン放送方式標準化委員会を招集、この委員会の名がそのまま規格の名前になった
それにしても総力戦である第二次大戦中にこのような規格策定作業を行えるアメリカの国力には恐れ入る。
画面比率:4:3
走査線数:525本インターレス
フレームレート:29.97fps
映像をテレビに表示するときに、走査線数もフレームレートどちらも高い方が高品質の映像となる
しかし電波で送られる信号の量には制限があり走査線数とフレームレートはトレードオフの関係となる。
そこで偶数フレームと奇数フレームで走査線を半分づつ送り走査線数とフレームレートを満足させる
というテクニックを使うことがある、これがインターレス方式

こんな感じで奇数/偶数の走査線データを交互に送る、フレームの切り替えが高速なら
人間の目には気が付かれることはない。
1945 _ 8/15:第二次世界大戦終結
普及期
第二次大戦によりヨーロッパは荒廃し、テレビの商業普及は一時停滞したが
被害の少ないアメリカではテレビ放送の商業普及は急速に進み、それを追うようにヨーロッパでも普及が進む
テレビ放送のカラー化も推進され NTSC / PAL / SECAM などの規格が制定された。
テレビ放送の商業普及はテレビ放送の社会インフラとしての側面を強くし、各国の産業政策の影響を
強く受けるようになる。
1946 _ 6/7:英国BBC放送再開
1950 _ 6/25:朝鮮戦争勃発
1950 _ 10/10:カラーテレビ放送へ向け規格策定の気運、FCC フィールド順次カラー方式を採択
1951 _ 06/24:アメリカ最大の放送局CBSがフィールド順次カラー方式で放送開始
1951 _ 06/??:第二次NTSC初会合
1953 _ 07/21:NTSCカラー放送規格承認、FCCに勧告
カラーテレビ実用化への模索と混乱
アメリカでのカラーテレビ規格について FCC(米国連邦通信委員会)が機械的機構である
フィールド順次カラーを採択した件については疑問を感じざるを得ない。
個人的な邪推となるがこの決定は技術的ではなく放送局側が干渉した技術的側面を軽視した決定が
行われたのではないかと思う。
NTSCモノクロ規格との互換性がなく、機械動作が必要な機構を持つフィールド順次カラー方式を
なぜ採用したのか?合理的な説明ができない。
実際、RCAが準備していたNTSCモノクロ規格と互換性を持つNTSCカラー規格の方が優秀で
あることは明確であり、第二次NTSC会合も誤った判断を訂正させるためのものだったのではないだろうか。
結局、CBSのカラーテレビは朝鮮戦争期間中のよるカラーテレビ生産制限期間中にCBSは
フィールド順次カラー方式を放棄し撤退を宣言した。
1953 _ 7/27:朝鮮戦争休戦状態に
1962 _ 12:西ドイツのテレフンケン社、PALの特許を取得
1967:英国、西ドイツにてPALによるカラー放送を開始
西ドイツのテレフンケン社がヨーロッパにて普及していた 625ラインシステム を拡張する形で
カラー化した放送規格、NTSCと比較し、色再現度が高いとされている
汎ヨーロッパの台頭による欧州経済共同体(EEC)の成立時期と重なるためか
テレフンケン社はこのPALの技術をヨーロッパの各国に提供し、NTSCなどに対する防衛的な
動きをしていたのではないかと思う。
(フランスは SECAM、しかしソビエトもフランスが作った SECAM 採用しているのも面白いよな)
画面比率:4:3
走査線数:625本インターレス
フレームレート:25fps
おわりに
以上、テレビ開発の始まりから NTSC / PAL 成立までの流れを時系列的に並べてみた。
手探りでテレビの形を模索している黎明期、技術者が全電子式テレビを目指し開発に鎬を削った発展期
そして商業普及に伴いテレビはインフラとしての役割が強くなり、国家が国民をコントロールする
手段としての役割を持たされた普及期。
テレビ開発の歴史はそれぞれのドラマがあり興味深いものであった。



